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「魂の目覚め」と「霊性の向上」 [生き方、生きる目的]

人間はふと「命」のことや「死」を考える時があります。
それは当然です、「なぜ自分は生きているのだろう」「死んだらどうなるのだろう」と考えるのは人間だからできることなのです。
苦しい時や悲しい時に「自分で自分の命を断つ」という思いがフッと心に浮かぶことがあります。

しかし、これは肉体的な視点・視野でのモノの見方であり、いのちの方からの見方ではありません。
いのちのことを生命と言い、いのち側から見た言葉で生命のことを「霊」と言います。

大事なのは、霊は死なないということです。
霊というのは、いのちのことです。
いのちは死ぬことができない、というのが正しいモノの見方なのです。
ただ「いのち」というとどうしても肉体的な視点・視野のモノの見方になりますので、生命的な視点・視野である「霊」という言葉を使わせていただきます。

いのち=生命=霊、であるということは覚えておいてください。

自分が死なないということは、死ねばわかります。
しかし魂が目覚めずに、霊性の向上もせずに死んだら一体どうなるのでしょうか?

みなさん、幽霊は好きですか?
霊界に行けずに、地上という幽界を彷徨っている死んだ霊魂のことです。
宇宙は全て霊界なのですが、地球に近い部分(空気のある大気圏内くらいでしょうか)を幽界といいます。
この幽界にいる霊魂のことを略して幽霊というのです。

ウィックランド博士の「迷える霊との対話」という本には、この手の話がたくさん載っています。
能や狂言にもこの手の話は多いです。
死んで霊界に行けずに幽界に残る霊魂は、地上の人間に憑依するようになります。
憑依というのは、人間の背後にいる霊魂が精神的な疾患を人間にもたらす状態のことをいいますが、精神的な病気までいかなくても、人間の背後には自分の思念に同調した霊魂がいるものです。
そういう地上近くにいる霊魂のことを幽霊と言います。

なぜ幽霊になるのかと言うと、死後自分は生き続けると言うことを知らなかったために、何の準備もしていなかったからです。
またこの地上に生まれたい、あるいは何かやり残したことがある場合なども戻ってくる可能性はあります。
もちろん人間としてではなく、幽霊という霊魂としてです。
霊的なあるいは宗教的な何かに従事していて思いを成就できなかった人が死後霊魂となり、霊能者に憑依することは多いです。
その場合には、おおよそですが背後に浮遊霊が憑いていて、その浮遊霊がその人の口を使ってしゃべります。
現象としてはシルバーバーチがバーバネルの口を借りたのと同じに見えますが、この二つは似て非なるものです。
大変申し訳ないですが、宗教者にはこのような背後霊が憑いている場合があります。
また浮遊霊になる霊魂は、病気で亡くなった方がほとんどであり、憑依されると、あるいは近くに来ると、肉体的な、あるいは精神的な病気になる場合が多いと思われます。

そもそもなぜ人間は生まれてきたのでしょうか?
人生を楽しむためでしょうか、楽をするためでしょうか?
それは肉体的な視点・視野の見方であり、霊的な視点・視野の見方では違います。

生まれてきた目的は「魂が目覚める」ためであり、「霊性を向上させる」ためなのです。
これがいのちの側から見た時の生まれてきた目的なのです。

ではどうしたら魂は目覚めるのでしょうか?
そもそも魂とはなんでしょうか?

魂とは「個としての意識」です。
霊というのは生きているエネルギー体のことであり、非物質です。
個霊といういのちに個魂という個別の意識があり、その霊魂が肉体という身体を身につけているのが人間という生き物です。
死というのは、この3つのうちの肉体という身体を脱ぐことなのです。
肉体を脱げば、代わりに霊体という身体が見えてきます。
死んだ霊魂には肉体は見えませんが、私たちの霊体は見えています。
そしてもう一つ見えているものがあります。
それはみなさんの「思念」です。
思っていること、考えていることの全てが霊魂には丸見えなのです。
何も隠せません、それが霊の、霊界の摂理なのです。

みなさんは知らず知らずのうちに自分と同じ思い、考えの霊魂を引き寄せているのです。
「向こうからは見えて、こちらから見えないなんて、卑怯じゃないか」いくらそう叫んでもこれが霊的な法則なのです。

目には見えませんが、おおよそ人間の欲が増長される時は、このような霊魂がそばに来ているようです。
こういう霊魂は、霊能者には「浮遊霊」として見えます。
空中をふわふわと飛んでいる状態で、人間の肩の上後方にいます。
背後霊でも、守護霊や指導霊とは違う類の背後霊です。
守護霊や指導霊は、おおよそドッシリと床についており、白く光って見えます。

シルバーバーチは、健康のために肉を食べないとかタバコを吸わないとか、それで霊性が向上するわけではなく、霊性を向上させようという思いで肉を食べないとかタバコを吸わないという動機が大切である、と言っています。
つまり自分のためではなく「人のため」もっと言うと「霊のため」という動機かどうかということでしょう。
シルバーバーチは、たとえ自分のためでも、やらないよりはやったほうが良い、と言っていますが、やはり自分のためにやっていたのでは霊性は向上しないのではないでしょうか。

魂が目覚めるためには、どうしても悲しみ、病気、危機的な状況など自分が追い詰められる状況が必要なようです。
崖っぷちまで追い詰められると、ここで魂が目覚めることがあります。
しかし、人間は「喉元過ぎれば熱さを忘れる」のごとく、手放そうと思っていた欲をまた握りしめてしまうのです。
そうすると、今度は崖から突き落とされます。
人間はこのように何度も痛い目に遭わないと魂が目覚めないのです。
というか、魂の目覚めは何度もあり、その度に深まっていくということです。

しかし、霊性の向上から逃げてばかりいると、流石に守護霊でも助けられないようです。
仏の顔も三度までというでしょう。

この地上に生まれてきた生命は、すべてのいのちは、与えられた寿命をまっとうする使命があります。
緊急時にはお医者様が必要です。
しかし、細胞の病気も脳の病気も骨の病気も、その多くはシルバーバーチは精神、つまり魂に由来していると言っています。
これらは霊性を向上させて、我欲を捨てていくことにより消えていくのではないでしょうか。

私は地上から病気を一掃したいと思っています。
もちろんこの新型コロナもです。
しかし、この地上から病気がなくなるのは結果だと思います。
その原因は私たち人間が作っていかなければなりなせん。
真の原因は「魂の目覚め」と「霊性の向上」にあることは明白です。

しかし人間は弱いです。
すぐに誘惑に負けてしまいます。
だからこそ、自分のことを「不完全」だと自覚することが大事だと思います。
不完全な自分を完全にしたいと言う思いに応えるために、その助けとなるためにシルバーバーチはいると思うのです。

私は霊的な摂理にしがみついています。
だから紆余曲折しながらでも、何とか前に進むことができているのだと思います。
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エッセイ❷ 人間は全員が霊能者であるということ [エッセイ]

人間は誰もが霊能者としての資質を持っている。
その理由は、「人間は霊だから」である。

しかし、聞くと「霊は嫌い」という人が多い。
日本には昔から霊の話はあった。
能や狂言には霊魂の話が沢山ある。

人は「自分が霊である」のに、「自分が霊である」ということになぜ気づかないのだろうか?
それは肉体という物質を着ているからである。
「自分は霊である」ということに気づかせてくれるのは、霊的な能力が出てきた時である。
霊的な能力は、五感の延長線上の能力として出てくる。

一番多いのは、霊界の誰かが見えるようになることである。
亡くなった身内の人や薄い青色の絹の衣を着た人を見ることがある。
次に多いのは、ここに居ない誰かの声が聞こえることである。
それは人の話し声だったり、お経だったりする。

匂うというのもそうである。
私の場合には、女性が通るとなぜか白粉の匂いがした時期がある。
そして、誰か他の霊魂が自分の口を使って話すというのがある。
シルバーバーチがバーバネルの口を使って話したのと同様のことが起きることがある。

最後に感ずる、というのがある。
何となく感ずるというのもそうであるが、手のひらがピリピリあるいはジンジンとすることが多い。
このピリピリというのは、シビレとは違う。
シビレは感覚が麻痺するものであり、片方の指の先など部分的なことが多いが、ピリピリは両手のひら全体がそういう状態になるものでありシビレとは明らかに違う現象である。

これらの五感の延長線上の霊能力は、誰にでも現れる可能性があるが、霊能力が現れたとしても、喜んだり怖がったりしてはいけない。
「人間は霊である」のだから、霊能力が現れるのは当たり前のことだからである。
もし霊能力が現れたら「自分は霊である」と落ち着いて認識することである。
霊能力は、「自分は霊である」ということに気づくために現れる現象だからである。
だから数ヶ月で消える場合もある。

「自分が霊である」と気づかせてくれるのは霊能力の現れだけではない。
食物アレルギーもそうであるし、病気や老いや死もそうである。
また夢もそうである。
夢には霊夢というものがある。
そもそも寝ている間、人間の霊魂は肉体を出て霊界を浮遊しているのだから夢は現実なのであるが、霊魂が明け方肉体に戻ると、そのことが思い出せないのは脳のキャパシティが小さいからである。

さて、今日は手のひらのピリピリについて話そうと思う。
手のひらがピリピリすると、ヒーリングができるようになる。
しかし、霊能力が現れたということは、霊性や霊格は高くないということである。
厳しいことを言うようだが、これが現実である。
なぜならば五感の延長線上の霊能力というのは、地球に近いところに居る霊魂の力を借りていることがほとんどだからである。

人間には霊魂が自分のすぐそばにに居るということが認識できないから平気で居るが、霊魂にはあなたの思念さえも全て見えている、ということを忘れてはならない。
思念、つまりあなたが思ったこと、考えたこと、あるいは腹の中まで、全てがオープンになっているということを知るべきである。
そしてそういう認識のもとで、緊張感を持って生きるようにすべきである。

人間はこの真実を知らないから、平気でウソ、ゴマカシ、カクシゴトをするが、今自分が生きているこの空間が霊界であるということを知れば、自分の思念から煩悩を追い出して正直に生きようと努めるようになるに違いない。

風邪を引いているうちはヒーリングはしないほうが良い。
風邪は霊性•霊格が向上すれば、引かなくなる。
風邪というのは、人の影響を受けているということの現れである。
人にはそれぞれ霊魂が憑いている、そう思ったほうが良い。
人を見る場合でも霊能者を見る場合でも、人間性ではなく霊性•霊格で見るようにすべきである。

ヒーリングをすると具合が悪くなる、という人は多い。
あるいは人と会うと疲れる、という人も多い。
その時にマッサージに行ったり、他の人のヒーリングを受けたりするが、それは正しくはない。
人にはそれぞれその人の霊性•霊格と同類の霊魂が憑いている、ということを忘れてはならない。

ではどうすれば良いのかというと、自分の霊性•霊格を向上させるしか方法はないのである。
自分の具合が悪い時、自分で自分が治せるようにならないといけない。
そのためには、人を治したいという欲を捨てることである。
自分で自分が治せるようになることが、スピリチュアルヒーリングへの道ではないだろうか、私はそう思っている。

人間には欲がある。
肉体を持ちながら欲を捨てるのは、本当に辛く苦しい修行であると思う。
欲というのは、自分がしたいこと、やりたいことである。

そうではなく、天がやって欲しいと思っていることをするようにしたら良い。
天というのは地球に近い霊界ではなく、遠い霊界のことである。
そのためには欲は邪魔になる。
特に60歳を過ぎたら、ベクトルを肉体ではなく、自分という霊魂の精進に合わせていくようにしないといけない。

私は意識を変え、食事を変えてきた。
意識は霊魂を変え、食事は肉体を変える。
この両方が霊主肉従には必要である、そう思う。

今の私はヒーリングをしたいとは思っていない。
そういう気持ちは捨てたのである。
しかしもし天が、高次の天がそう望む時期が来たならば、私は喜んでヒーリングをするだろう。
その場所や費用もきっと天が用意してくれるに違いない。
しかし、高次の天が望むのはまったく違うことかもしれない。

私がやるべきことは、自分の霊魂が高次の天とつながるようにしておくしておくことである。
自分は高次の天の道具である、ようやくそういう心が少し芽生えてきた。
自分を無くさなければ高次の天の道具となることはできない、分かってはいるがこんなに難しいことはない。
まさに「日常こそ修行の場」である。
自分の日常は人生を楽しむ為や楽をするためにあるのではなく、自分という魂の修行の場所なのである。
ようやく私という魂は、そういう意識をもつことができるようになってきたのである。

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スピリチュアルヒーリング [心霊治療]

最近わかってきたことがあります。
それは「病気を治してあげたい」と思っているうちはスピリチュアルではなく、サイキックであるということです。

シルバーバーチは心霊治療には三つのパターンがあると言っています。
一つは磁気的な治療で、ヒーラーが自分の気を使うものです。
もう一つはサイキックと言われるもので、五感の延長上にある能力を使うものです。
遠隔治療などもサイキックです。
そして完全に霊的な力を使う、それがスピリチュアルヒーリングです。

病気を治してあげたい、という気持ちはとても大切なものです。
しかしこれは自分の欲なのです。
病気は治してもらうものではありません。
「シルバーバーチの霊訓第5巻」には「病気は自分で治すものである」とハッキリと書かれています。
この第5巻は今は中古本で高いものを買うしかありません。
電子書籍だけではなく、紙の書籍として手軽な価格で出版される必要があります。

今 日本にはシルバーバーチが言うスピリチュアルヒーラーはいないのではないでしょうか。
否、世界にもいないかもしれません。

先ほども記しました通り「治したい」という気持ちがある限り、スピリチュアルヒーラーにはなれないということなのです。
マザーテレサは言っています、「私は神の道具です」と。
そこに自分がこうしたいとかああしたいという意志は無いのです。

私は長い間経営をしてきました。
経営は計画がすべてです。
そこには自分がこうするんだという強い意志が必要です。

ところがマザーテレサの神の道具というものには、自分の意志がないのです。
つまり経営とヒーリングは180度対極にあるのです。
では私は霊的に見て一体何を目指せばよいのでしょうか?
目標を持たずに、霊的な方向に進むことはできるのでしょうか?

そうです。
目標を明確に持たずに、それでいて霊的な方向に自分が進んでいく、ということが必要になるのです。
たとえば勉強をするのは何かの目的を成就するためです。
ただ勉強をしろと言われても、目的がなければ勉強を継続することはできません。

ではわたしの目的は何なのか?
それはわかりません。
わからないというのはピンポイントではわからないという意味です。
大きいベクトルはわかっています。

ただ経営ではできる限りピンポイントで目標を設定するということをしてきました。
それをせずにただ大きなベクトルだけで進むのは本当に苦しかったです。
幾度も幾度も「本当にこれで良いのだろうか」と問い直しました。

霊的な進化、つまり霊性の向上というのは、遅々としてなかなか進まないものです。
特にこれをやりたい、あれをやりたい、と思っているうちは難しいです。

では何をすれば良いのか?
それは天が望むことです。
私は無宗教ですので神という言葉ではなく、天という言葉を使いますが、意味は同じです。

では天は何を望んでいるのか、それはそういう時期が来なければわかりません。
わかりませんが、進むベクトルが正しければ、必ずいつかわかってきます。
私はそう信じています。
ただ多くの人はその時まで我慢できずに、何かを自分から求めてしまうということでしょう。
それをシルバーバーチは「残念なことにせっかく目覚めたのに、多くの人が途中で脱落していきます」と言っています。

以前は私も「人を治してあげたい」という欲は、意欲という良い欲であると考えていました。
しかし霊的な摂理の下では欲は欲なのです。
その欲まで捨てるというのは、要するに「自分を無くしていく」、ということなのです。

マザーテレサは「自分を捨てれば、自分が出てくる」と言っています。
欲を持っている小さな自分を捨てれば、大きな自分が出てくるということです。

スズメは100羽で一つの霊として生きています。
魂はありますが、類魂という意識であり、個としては確立していません。
これは大きなヒントになります。

人間は魂、つまり意識として個が確立しているように見えます。
しかし、これは物質的な視点で見た時の自分です。
人間の類魂は、やはりスズメ同様に同じ霊の中にあります。
ただスズメと違うのは、スズメはその現象が目で見えるところにあり、人間は目に見えないところにあるということでしょう。

こんなことを書くとビックリするかもしれませんが、自分という魂はやがては同じ霊の中の類魂と一緒になるということなのです。
皆さんはそれが許せますか?
もし許せないとするならば、それは自分を認めていないということになります。

自分という魂は霊的にどれほど合体してきたことでしょうか。
みなさんはそうやってアメーバから虫になり、虫からチョウチョになり、チョウチョから魚になり、魚から鳥になり、鳥から動物になり、そしてようやく人間になったのです。
魂の霊的な進化の程度によって、それぞれに合った身体を身につけていたということなのです。
それが連綿と続いてきたし、これからも連綿と続いていくということなのです。
それを認めて許して受け入れなければ、意識がそうならなければ、心が大きくなることは難しいです。

さて、スピリチュアルヒーリングの話に戻りますが、病気は自分で治すもの、というのが基本です。
従ってスピリチュアルヒーラーは、治療時には何も考えません。
ただ無心に手を当てるだけです。

ノコギリやトンカチなどの道具が自分の意志を持ったら、私たちはきっとこれらの道具を使えなくなると思います。
つまり道具というのは、自分がこうしたいとかああしたいとか言う意志が全くないもののことです。
欲や感情があってはならないのです。
まさに人生は修行ですね。

今スピリチュアルヒーラーがいないのは、道具となる人がいないからであり、天はそういう人が出てくるのを今か今かと待っている、私はそう思っています。
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エッセイ❶ [エッセイ]

明け方に「う〜っ」という大きな寝言を言って私は目が覚めた。
これが私の日常である。

なぜ大きな声で「う〜っ」と言うのかというと、それは私という霊魂が肉体に帰ってきたからである。
おそらく自分という霊が帰ってきて肉体が伸びるのだろうと思うが、仰向けに寝ながらグーっと背伸びをするような感じである
そのときに「う〜っ」という声が出るのだ。

これは「おかえりなさい」ではない。
「ただいま」なのである。

私という霊魂はいつ肉体から出たのか、その時の意識ははっきりしていない。
出る時はどうやらスーッと出るようである。
そしてどこをどう浮遊してくるのか、それともすぐそこにいるのか、そこがまだよくわからない。
意識が夢として捉えていて、何かハッキリしないのである。
だからすぐに忘れてしまう。
ここがもう少しハッキリしてきたら記事として書けるようになると思う。

しかし自分が、自分という霊魂が、自分の肉体に戻ってきた時だけは分かる。
その間、肉体は主人が留守をしているわけであるが心配はいらない。
留守の間に他の霊魂が侵入できないようになっているのである。
もちろんその間の肉体に意識はない。
意識は霊魂の魂にあるからだ。
一寸の虫にも五分の魂、どんなに小さな虫、目に見えないウィルスにさえ意識はある。
地上に生まれたすべての生物には意識がある。
ただし自分という意識はない。
自分という意識があるのは人間だけである。

自分を見守っている守護霊はいつも自分と一緒にいる。
この守護霊という霊魂は自分と同じ霊の中の違う個性の自分なのであるが、この守護霊も私と同じく修行中の身なのである。
個性を現す言葉は、英語ではパーソナルがあり、もっと大きな個性のことをインディヴィジュアルという。
つまり、インディヴィジュアルという霊の中に、私という魂も守護霊という魂もいる、ということである。

私の守護霊は古代ギリシャ時代の頃に地球に生まれたようである。
当時バルバロイと呼ばれかなり苦労したようであるが、今も私の守護で労苦が絶えないと思う。

私は生まれてから「自分は自分である」とずっと思ってきた。
いわゆる「オレが、オレが」の自己中心的な生き方である。
その自分を守ってきた守護霊には、それが宿命だとはいえ、いくら感謝しても仕切れない。
しかも自分は未だに霊主肉従になりきれずに、紆余曲折しながら今も地上で生きている。

昔、クルマに乗っていて居眠りをしてしまったことがあった。
ハッと気づいたら、目の前に道路工事の誘導の人がいて、慌てて急ブレーキを踏んで間一髪間に合ったことがあった。
またある時クレームで、いわゆるチンピラさんのところに行かねばならないことがあった。
その家の近くで道がわからなくなり探していると、そこに中年のご婦人が通りかかったので道を尋ねた。
するとそのご婦人が答えた。
「それは私の息子です。私も今息子を訪ねて行くところです」
そしてご婦人、つまりチンピラさんのお母様と一緒に尋ねて事なきを得たこともあった。

まだまだたくさんある。
これらは偶然に起きていたことではなく、すべて私という人間を守り助けるために起きていたことなのである。
もちろん痛い目にあったことも幾度となくあるが、それも偶然ではなく私という魂の成長には必要なことだったに違いない。

霊的に目覚めてから来年で10年になる。
つまりシルバーバーチの本と出会って10年になると言うことである。

もしシルバーバーチの本がなかったら、きっと今も霊能力を使い続けていたに違いない。
そして身体のどこかが常に具合悪くなっていたことだろう。
霊的なものを求める中で、私のベクトルが変わったのは、霊能力を使わなくなって半年くらい経ってからである。
使わなくなった理由は、霊能力は使うために現れるのではなく、人間は霊であると言うことを得心するためである、と言うことに気付いたからである。
そこから「霊とは何か」「魂とは何か」と言う探求が始まったのである。

やがて自分は人間まで進化した霊である、と言うことに気づくことになる。
自分という霊は長い年月をかけて、様々な肉体に宿りながら魂を成長させてきたのである。
自分は動物であった時があったかもしれないし、鳥であった時があったかもしれない。
魚であった時があったかもしれないし、虫であった時があったかもしれない。
そう思ったら、植物以外は何も食べたいという気持ちが起こらなくなったのである。

ベジタリアンからヴィーガンになり、グルテンフリーになり、そしてカフェインレスになるのに2年くらいはかかったと思う。
この頃に、なぜ食物アレルギーが起きるのかが分かったのである。
それは人間は霊だからである。

霊というのは無始無終であり、生命としてずっと続いてきたのである。
生命とは霊のことなのである。
この「生命とは霊のことである」「人間は霊である」という思いが自分の背骨・理念になってから、ものすごいスピードで霊のことがわかるようになったと思う。
まるで新幹線で景色が後ろに飛んでいくようなイメージであった。

今はまたスピードが遅くなっている気がする。
霊的な進化はスパイラルだそうだから、まあ焦らずに粛々と進めることにしよう。

日常こそ修行の場
謙虚さを忘れずに

これが背後霊から教えてもらった私のモットーである。

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科学と哲学と思想 [思想・哲学]

科学と思想は、仮説を立てて検証するという同じことをしているのですが、この二つは似て非なるものである、ということができます。

まず、この無限の宇宙には目で見える世界と見えない世界がある、ということを知っていただきたいと思います。
「見える世界」というのはモノの世界であり、これを「物質の世界」と言います。
人間の身体も物質であるし、原子やクォークなども物質です。
これらの物質の世界の未知を明らかにしていく人のことを科学者と言い、この明らかになったものを応用するために創意工夫し、腕を磨いていくいく人のことを技術者と言います。
つまり科学や技術というのは「物質の世界」「見える世界」の話であると言うことです。

これに対して宇宙には目では「見えない世界」と言うのがあります。
見えない世界は科学では検証することができません。
なぜならば科学というのは、万人が「その通りだ」と思うことが重要だからです。

見えない世界というのは「非物質の世界」のことです。
この「非物質」のことを「生命」と言います。
私たちは生命と言うと肉体を思い浮かべますが、それは真理ではありません。
生命というのは、「生きているエネルギー」です。
生きているエネルギーが肉体という物質を動かしているのであり、生命である霊が出ていってしまえば肉体は土に還ります。
それを私たちは死と呼んでいるのです。

この「非物質」あるいは「非物質の世界」を哲(あき)らかにしていく人のことを「哲学者」と言い、哲らかにしたことを自ら検証していく人のことを「思想家」と私は呼んでいます。
つまり思想というのは哲学の延長線上にあるということです。
哲らかにした哲学が真理なのか真理でないのかを検証するには、哲学者が自分の生き様で検証していくしかありません。
もし検証しないならば、それは机上の空論になってしまいます。
哲学者が哲学者で終わらずに思想家となる為には、一歩踏み出す勇気が必要なのです。

目では見えない「生命の世界」を探究し出しますと、必ず「生命の法則」である「霊的な摂理」に遭遇します。
この「生命の世界」の探求こそが哲学です。
やがて「シルバーバーチの霊訓」を知ることとなります。
この本には「霊的な摂理」がギッシリと詰まっています。
そして自分が知った「霊的な摂理」は本当に真理なのだろうか、それとも絵空事なのだろうかという疑念が湧いてきます。

この疑念を晴らすには、自分自身が霊的な生き方をして、「人間は霊である」という仮説を検証していく以外にありません。
そうしない限り「人間は霊である」という最も偉大な真理が腑に落ちることはありません。

言葉で言うと「霊的な生き方」という簡単な言葉で終わりますが、この「霊的な生き方」をする為には、一歩踏み出す勇気、不退転の決意が必要になります。

シルバーバーチは「霊的に目覚める人は多数います。しかし霊的に生きようとする人は少数です」と言って残念がっています。
実は私も葛藤がありました。
その時に「なぜ自分がこんなにも大変なことをせねばならないのか」という思いが出てきたのです。
大変なこと・・霊の真理を検証するには、苦難や困難を受け入れて経験しなければならないからです。
人間には苦難や困難にチャレンジする自由も、そこから逃げて楽な道を選ぶ自由も与えられています。

自分は霊であるという真理を、自らの人生で検証していく為には、どうしても霊主肉従で生きるよう努力しなければなりません。
病気も老いも死もない、生きる苦難や困難もない、という般若心経の悟りの境地に行き着く為には、自分が体験をする以外に方法がないのです。
これは机上の空論ではないのです。

作家の五木寛之さんは「大河の一滴」という書籍で「人生は苦難・困難の連続である、そう思って生きる覚悟が必要である」と説いています。
覚悟とは、「霊主肉従」で生きる覚悟である、と私は思います。
人間は、否、すべての生き物は進化する為に生まれてきました。
肉体的にではなく、生命として、霊として進化する為です。

霊的に進化しない限り、「自分は生命という霊である」という真理が腑に落ちることはありません。
その為には「霊主肉従」で生きて、「霊的な摂理」という「霊力」が間違いなく自分という生命に働いている、という検証が必要なのです。

目で見える科学は万人が検証することができますが、目で見えない世界は一人一人が体験を通して検証する以外に方法がないのです。
だからこそ「覚悟」が必要なのです。

なぜ覚悟が必要かというと、そこには肉体的な誘惑があるからです。
苦難・困難よりも楽な方に行きたい、と思うのが人間です。
それが地上にいる人間の霊性の平均的な立ち位置なのです。
その思いに迎合しないことです。

生命の霊的な進化には紆余曲折があり、スパイラルに行きつ戻りつ進んでいきます。
決して平坦な道のりではありません。
苦難、困難、悲しみ、病気、危機的な状況などが引きも切らず押し寄せてきます。
しかし心配には及びません。
これらは必ず克服できるようになっています。
もし克服できないならば、それは霊的な摂理に抵触しているか、あるいは楽をして最善を尽くしていないかです。

心配や不安、取り越し苦労は、霊にとって最大の敵である、とシルバーバーチは言っています。
そういう思いになるのは、自分の理念、背骨がしっかりとできていないからに他なりません。
理念、背骨は知識と体験でつくられます。

霊的な摂理を体験すればするほど、もっと知りたくなるものです。
見えない世界の未知のことを知る為には、自分の霊性を向上させる以外に方法はありません。
霊性の向上と体験、このような好循環の中にもスパイラルはあります。
しかし自分にしっかりとした理念、背骨があれば、どのような逆境になっても「必ず思った通りになる」という信念で前に進むことができます。
「思った通り」と言うのは、もちろん「天が思った通り」という意味であり、私利私欲で思った通りになる、という意味ではありません。

人を見ていると、人を相手にしていると、世間に迎合して逆戻りしてしまいます。
そうならないようにするには、天を相手とすることです。
天というのは「霊的な摂理」という生命の法則のことです。
それを理念、背骨として前に進む努力をしていけば、大きな霊力が自分という霊に働いていることを体験することができるようになります。
絶えなる知識と体験こそが思想家の道なのです。

科学と哲学・思想は180度違うように見えます。
しかし入口や登る道は違ってもいつかきっと同じところに辿り着く、私はそう思っています。

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人間は、肉体を持った霊魂であるということ [思想・哲学]

自分という人間は、肉体という物質を着ている霊魂という非物質なのです。
これが真理です。
自分という人間の正体です。

それをまずは知識として知ることです。
宇宙には物質の世界と非物質の世界があり、この地球という天体は物質が色濃く出ている世界です。
他の太陽や月は非物質が色濃く出ている世界です。

人間も他の生き物も、この地上にいる限りは肉体という物質を勝手に脱ぐことは出来ません。
人間は肉体の上に衣類というものを着ますが、この衣類も丁寧に洗って使えば綺麗で長持ちします。
未来の人間はヴィーガンでグルテンフリーでカフェインレスという食生活になっていきます。
そして120歳という寿命を、ほとんど病気をせずに送ることになると思います。

120歳というと60歳が折り返し点になります。
しかも後の60年間を健康に過ごすことができたら、人生設計は一変するでしょう。
と言いましても人間にはやるべきことがあります。
それはこの後半の60年間で肉主霊従から霊主肉従へと自分の生き方を変えていくことです。

人間の生き方は、何か大きな苦難や困難が起きると変わるものです。
自分の魂というのは、言葉を変えると意識です。
生き方が変わるのは、自分の意識が変わる時です。
人間には必ず自分の意識が変わるような出来事が起きるように設計されています。
病気、悲しみ、失意、危機的な状況などの苦難や困難です。
これは一人一人に起きることなのですが、地域や国民全体や地球全体で起きることもあります。
地震や台風などの災害や原発のメルトダウン、感染症などはその一例です。

これらは自分の魂を目覚めさせるために起きていると考えるべきです。
他人事ではなく、心の底から「大変なことが起きた」と思えた時に意識は変わるようです。
つまり人間は自分に何か大変なことが起きなければ、意識が変わることはほぼないということが言えると思います。

ほぼないという書き方をしたのは、意識を変えることを自分の自由意志で選択することもできるからです。
ある程度霊性が向上してきますと、人間は自分の自由意志を「霊性を向上させる」という方向に向かうようにコントロールすることができるようになります。
と言いましても完全ではありません。
不完全ながら、紆余曲折しながら魂を磨く方向に向かって歩いていく努力が自分からできるようになるということです。

今「努力」という書き方をしましたが、努力というよりも自分のいのちを進化させる方向に行かずに居れないと言った方が正しいかも知れません。
人間の人生は選択の連続であるということができます。
霊的な選択をするためには、自分は霊魂である、という意識が必要になります。

正しい霊的な知識の次に必要なのは「霊的な体験」です。
もっともポピュラーなのは、霊能力の顕現です。
霊能力の体験は「自分は霊魂である」ということが腑に落ちるための触媒です。

そしてもう一つ自分が霊魂であるということを知る触媒があります。
それは「霊的な摂理」を体験することです。
たとえば「正直」で損をすることは絶対に無いという体験です。
あるいは人を責めない、争わないということで損をすることが無いという体験です。
今損をすることが無いと書きましたが、実際に物事が良い方向に動いて、最終的には自分が思っていた方向で決着するということです。

霊的な摂理を体験するというのは、非常に重要なことだと思います。
そのためには、霊的な摂理とは何か、ということをまずは知識としてインプットしておく必要があります。
私は断然「シルバーバーチの霊訓(全12巻)」をお薦めします。
3000年前に他界した、今は遠い星に住んでいる霊性の高い霊魂が記したこの書物の右に出る本はありません。
私の記しているものもそうですが、自分の霊性以上のものは書く事が出来ませんし、言動も制約されます。
霊性が向上すれば、自由意志が広がります。
今まで出来なかったことが出来るようになります。
たとえば私はいまヴィーガンでグルテンフリーでカフェインレスという食生活をしています。
これは強制ではなく自分の自由意志で選択しているわけです。
私はイヤイヤではなく喜んでそうしています。
そして、霊的な摂理は確実に人間に働いている、ということを幾度も自分で体験させてもらっています。

以前の私には絶対に出来なかったのに、今こうしてそれが出来るのは、自分の自由意志の選択の範囲が広がったからだと思います。
通常何もしなければ、人間の自由意志の選択範囲は非常に狭いです。
狭いということは不自由だということです。
人間の自由は肉体的なものを指す言葉であり、実は霊的には不自由極まりないということです。
本当の自由というのは、自由意志の選択の幅が広いことを言うのです。
自由意志はこのように、肉体的なものと霊的なものとの両方の方向に広がっているということです。
それを今の人類は片側の方、つまり肉体的な自由意志しか使っていません。

霊的な自由意志を使えるようになると、遊ぶことがつまらなくなってきます。
遊ぶというのは肉体的な自由意志の選択肢であり、霊的な自由意志の選択範疇にはないからです。

争い、不正直、愚痴、悪口、怒り、貪欲、ねたみ、不真面目、憎しみ、意地汚なさ、虚栄心、名誉、肩書、地位、・・これらは肉体的な自由意志の範疇です。
霊性が向上すればこれらの肉体的な自由意志がなくなるのかというとそうではありません。
これらを自分で選択しなくなるのです。

自分という魂の向かう方向が霊的なベクトルに変わると、霊的な選択肢が増えて肉体的な選択肢を選択しなくなるのです。
みなさんが大変だと思って選択できないのは、実は自由意志の選択の幅が狭いことが原因なのです。
だったらこの原因を取り除いてあげれば良いのです。
それが次の世界で自分を活かすことにつながります。
60歳までの人生は60歳からの人生のために、60歳からの人生は120歳からの人生のためにあります。
人生はそこで終わるということがありません。
原因があるから結果があり、その結果がまた新たな原因となって新しい結果となる、ということが連綿と続いているのが人生なのです。

人間は肉体を着た霊魂です。
私たちはいつか肉体を置いて霊魂で生きるようになります。
それは運命ではなく宿命なのです。
その時になって「あゝしまった。地上にいる時にもっと霊的な選択肢の幅を広げておけばよかった」と思っても遅いのです。
霊魂になって霊的な選択肢がないというのは本当に辛く苦しいことに違いありません。
肉体的な選択肢しかない霊魂は、肉体が無いのに肉体的に生きようとします。
霊的な選択肢ができるまでは、辛く苦しい時間を過ごさねばなりません。

ならば先送りするのではなく、いま地上にいる間に辛く困難な道を選択することにより、自分の自由意志の幅を広げることが出来るのではないでしょうか。
マザーテレサが「困難な方を選びなさい」と言っているのはきっとそういうことだと思います。
辛く苦しいと思って始めたことが、私は今は楽しいことに変わってきています。
信じられないかも知れませんが、ヴィーガン、グルテンフリー、カフェインレス、飲酒レス、という食生活が楽しいのです。
これは強がりではなく、本当に楽しいのですから仕方ありません。
もっと霊的な選択肢の幅が広がれば、きっと今見えていないことも見えてくるのだと思います。
自分が行き詰まって悶々とするのは、自分の自由意志の選択の幅が小さいことが原因なのです。
特に地上の人類の霊的な自由意志の選択肢はほぼないに等しい状態なのです。
もちろん私も五十歩百歩です。

私は60歳を過ぎましたが、60歳を過ぎたからこそ上記のことがわかってきたのです。
ならば次の120歳まで、自由意志の選択肢をもっともっと広げていきたい、私はそう思っています。
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人間はなぜ病気になるのでしょうか [病気、老い、新型コロナウィルス]

その謎を解くには、「宇宙は何のために存在しているのか?」という哲学的な問題を解いておかねばなりません。
哲学とは非物質の世界を明らかにしていくことであり、思想とは自分が明らかにした哲学の仮説に対して自分自身の人生で検証していくことである、私はそう思っています。
物質の世界で万人が検証できることを科学と言いますが、非物質の世界も同じように万人が検証できる、私はそう思っています。

さて、宇宙は何のために存在しているのかですが、宇宙は生命のために存在しています。
生命というのは「生きているエネルギー」という非物質であり、これを「霊」と言います。
人間や動物、鳥や魚、虫や植物などは生きています。
生きているものには100%「霊」が宿っています。
霊という生きているエネルギーがなければ、生物は生きていられません。
地上でみなさんが生物と呼んでいるものは、生命という霊のことではなく、肉体のことのみを指しています。
そこに誤謬があるのです。
肉体は物質ですから目で見えますが、霊は非物質ですから目では見えません。
死というのは、霊が肉体を地上に置いて霊の世界に出て行くことを言います。

なぜ非物質である霊が、物質である肉体を身に付けなければならないのか、それは個である魂の修行のためです。
魂というとピンとこないかもしれませんが、精神というと何となく分かると思います。
地上の生物は、人間として生まれて初めて個性をもつことになります。
一人一人顔が違うのは個性があるからです。
人間はいのちとして、初めて個性を持つまでに進化したということです。

マクロ的に見れば、同時期に地球に生まれた人間はほぼ同じ進化の過程にいますが、国や一人一人の進化の過程は微妙に違います。
物的には価値観とか人間性と言いますが、霊的には霊性或いは霊格と言います。
私たち人間が地上に生まれたのは、魂の霊性を向上させるためです。

なぜ魂の霊性を向上させる必要があるのかというと、魂が不完全だからです。
不完全というのは、霊の完全性を現すことができていないということです。
不完全な故に、生老病死という困難、苦難が襲ってくるのです。

霊は完全です。
それは自分で霊の完全性を検証してみれば分かると思います。
私は幾度となく検証しています。
そのために出来るだけ霊主肉従で生きようとしているのです。

病気も同じです。
肉体の病気も精神の病気も、どちらも物的なものであり、それは魂が不完全だから起きているのです。
病気も老いも死も、すべては肉体に起きることです。

肉体は物質です、モノなのです。
モノはいつかは壊れるでしょう。
確かに両親から頂いた大事なモノには違いありません。
しかし自分の本質ではないのです。
肉体は影に過ぎません。
では何の影なのか?
肉体は魂の影なのです。

魂が成長すれば、影も成長します。
魂の霊性が向上すれば、肉体の病気も老いもなくなっていきます。
肉体は結果であり、原因は魂にあるのです。

何もせずに生きていれば、精神は弱いままです。
誘惑に弱いということは、霊的に生きていない証拠です。
霊的にという意味は、興味本位にではなく、霊的な摂理に則って生きるように努力するということです。
そうしなければ、意識が変わることはありません。
意識が変わらなければ、自分に霊的な摂理が働いているという事実を認識することができません。
それが認識できない限り、自分が霊であるという事実を、認めて受け入れることは出来ないでしょう。

自分は霊である、ということを自分という魂が認めて受け入れることで、初めて腑に落ちるようになります。
そうすると霊が怖くなくなります。
病気のほとんどは霊的なもの、つまり魂が未熟なことが原因ですから霊性が向上するにつれて、風邪を引かなくなり、足腰や背中の痛みも無くなっていきます。

霊性の向上という霊的な修行は、日常でしか出来ません。
宗教や何かの集まりなどでは勉強はできるかもしれませんが、修行はできません。
修行は日常で一人でやらねばなりません。
気の合った仲間と行うというのは自分の魂が楽を求めているのであり、魂の修行にはなりません。
魂の成長は一人一人の問題であり、人と共有することは出来ないのです。

病気、悲しみ、危機的な状況などの困難、苦難はすべて自分という魂を成長させるために起きていると思って間違いありません、
家庭や仕事、ご近所との問題も、すべて自分という魂を成長させるために起きている霊的なものです。
もちろん新型コロナも同じです。

新型コロナが怖いのは、自分という魂がまだ肉体的に生きているからです。
魂というのは霊の属性であり、肉体の属性ではないのです。
精神は肉体の属性ではなく、霊の属性なのです。

確かに肉体的な遺伝もありますが、ほとんどの病気は霊的に見て生き方が間違っているから起きていることだと思います。
今世の中で当たり前のことが、霊的に見て正しくない場合が多々あります。
人間が作った法律はいい加減で、そのほとんどがグレイ色です。
それを基準とするのではなく、宇宙すべてを統治統括している「霊的な摂理」を判断基準として行動すれば間違えることは少なくなります。
そして何よりも、霊的な摂理の恩恵を受けることができるようになります。
それをシルバーバーチは「霊の褒賞」「霊の宝」と言っていて、とても手に入れにくいものであると言っています。
マザーテレサは「チャレンジこそ神が望んでいること」と言っています。

自分に起きた困難、苦難は必要だから起きているのです。
それは魂の成長にとって必要なのです。
最善を尽くせば、苦難困難は必ず克服できるようになっています。
最善を尽くせば、必ず克服できるということを体験を通して知ってください。
途中で人の助けを借りることがあつても、最後は一人でやらねばなりません。
これは一人一人の課題なのです。

必ず克服できるのですから、絶対にそれらから逃げてはいけないのです。
人間は地上だけではなく、死後も生き続けねばならない宿命があります。
人間だけではなく、すべての生物、いのちは永遠に死ねないのです。
そしてすべての生物、いのちには、魂を成長させていく、霊性を向上させていく使命があるのです。
この地上にいる間に、そのことに気づいた人は幸せな人である、そう私は思っています。
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今日は皆さんご自身についてお伺いしたいと思います [命とは何か、人間とは何か]

みなさんは確かに生きています。
生きているということは、みなさんは生命であるということです。
生命のことを霊と言います。
生命と霊は同義語(同じものを指す言葉)です。
では皆さんにお伺いします。

みなさんという霊は一体全体どこにあるのでしょうか?
みなさんは「自分は霊である」という意識がおありでしょうか?
そして霊とはなんでしょうか?

ご自分の言葉で答えるということに、チャレンジしてみてください。

なぜこのようなことをお聞きするのかというと、生老病死という苦難、困難は「自分は霊である」ということが腑に落ちるためにあるからです。
ただ解るのではなく、ドスンと自分の五臓六腑に落ちることが大事なのです。

知識という頭脳ではなく、智慧という魂に響く、シルバーバーチ風に言えば「魂の琴線に触れる」ということだと思います。
大袈裟に言えば、今生の人生は「自分は霊である」「自分は生命である」ということが腑に落ちるためにあるのです。

腑に落ちれば、人生は一変します。
絶対に間違えることがない背骨ができるからです。
それからは生老病死が苦難ではなくなります。

「人間は霊である」これこそがすべてのカギを解くキーワードなのです。

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総理大臣 菅義偉という人を霊的視点で見る [時事問題]

以前私はこのブログで日本のトップにふさわしいのは、霊的視点で見て「霊性の高い人」と記しました。
さて、新しく日本の総理大臣になった菅義偉という人はどうでしょうか。

官房長官時代に言っていた菅さんの理念は「自助共助公助そして絆」というものでした。
しかしこれだけでは人の器はわかりません。
器には「人間性の器」と「霊性の器」という二つの器があり、この二つは似て非なるものです。

多くの人やマスコミは、人を人間性の器で評価しており、霊性では見ていません。
それは生命には霊性というものがあることを知らないからです。
人間を肉体という視点で見ていれば、人間性のみが見えてしまいます。
多くの人が「生命とは何か」という最も学ばなくてはならないものをお座なりにしているのは本当にもったいないと思います。

人間を見る上で大切なのは、生命に宿っている「魂」です。
魂にはそれぞれの立ち位置があります。
その立ち位置のことを霊性と言います。
霊性とは、どれだけ霊(=生命)の完全性が現れているかのバロメーターです。
生命という霊は完全なのですが、今生という地上に生まれてきた自分という魂は不完全なのです。
もちろん霊という生命も自分であり、肉体も自分なのですが・・。

自分が不完全だと悟った人は謙虚になります。
俺が俺が、私が私が、という自我がなくなっていくからです。
謙虚とおとなしいのとは違います。
前者は霊性、後者は人間性です。
この二つは似て非なるものです。
謙虚さの裏側には、しっかりとした理念、背骨があります。
それがない謙虚は、霊性ではなく人間性です。
子供の時におとなしい人、静かな人は、霊性が向上する可能性があります。
いわゆる下戸の人も同様のことが言えると思います。
まずは自分という我を育てて、そして我を捨てていくということを長い人生の中で行っていくことになります。
それを70年かけて行っていくのです。
人生は短いようで長いです。
焦る必要はないのです。

さて、それでは菅さんを見てみましょう。
昨日菅さんは第99代の総理大臣に選出されました。
日本のトップになったわけです。

トップとしての霊性の器は、昨日半日しか見ていませんが、かなり大きいと見ました。
まず桜を見る会をやめると断言しました。
マスコミは「前総理大臣に相談したのか」と聞きましたが愚問です。
相談はしていません。
菅さんは桜を見る会の出席者の内容や人数などはどうでも良いと思っているのです。
なぜならばマスコミや野党が問題にしていることは、木に例えれば枝葉の問題に過ぎないからです。
では幹は何かと言いますと、それは「税金の無駄遣い」です。
そこをズバッと言えるということは、私は菅さんは霊的視点で見て霊性の高い人と見ました。
菅さんは周りに配慮して税金の無駄遣いと言わず言葉を濁していましたが、心中は税金の無駄遣いだと思っています。

そして行政の縦割りという悪しき慣習にメスを入れようとしています。
既得権の打破です。
既得権は行政だけではなく、あらゆる社会に根付いています。

菅さんが無派閥になったのは偶然ではありません。
菅さんは与党にいながらにして、野党の心を持った人なのです。
昨日野党の党首が「菅内閣は前総理大臣の亜流内閣である」と言いました。
私は違うと思います。
菅内閣は野党の心を持った改革の内閣であり、亜流は今の野党ではないか、そう思えるのです。

これから菅総理大臣の改革の戦いがはじまります。
それに人々がついていけるのかが心配です。
ほとんどの人は酒や食事を税金で楽しむくらい良いのではないか、と思っているからです。

菅さんは決して孤独ではありません。
人間的には孤独に見えますが、天が応援しています。
霊的視点で見れば、多くの霊性の高い霊魂が応援をしているのです。

それでも人間には魔が刺すという言葉があります。
人間は誘惑に弱いです。
そこにどう負けずに進んでいけるのか、まさに自分との戦いです。

しかしコロナ危機にあって、日本には千載一遇のチャンスが訪れました。
組織はトップ以上にはならない、というのが私の持論です。
トップの霊性以上にはならない、ということです。
あとは人民が改革について行けるかどうかです。
国民全体の霊性の底上げが必要なようです。
まさに一人の百歩より百人の一歩ということでしょう。

霊性の向上ほどの苦難はないとシルバーバーチが言っているように、これは国民全体に課せられた試練です。
霊性と言いますのは先ほども述べましたように、魂という自分がどれだけ霊の完全性を現しているかのバロメーターです。
霊というのは生命のことです。

つまり人間は肉体である前に魂であり、魂である前に霊なのです。
このことは「シルバーバーチの霊訓」という書籍に詳しく書いてあります。

シルバーバーチの霊訓という書籍は、近藤千雄さんが翻訳をしていて、全12巻が潮文社から発売されていましたが、昨年潮文社は廃業されました。
私は昨年末に潮文社の小島社長にお会いしてその詳細を聞くことができました。
そして間に入っている弁護士を紹介してくださいました。
なぜ小島社長をお尋ねしたかと言いますと、シルバーバーチの霊訓が絶版になるのを放っておけなかったからです。
その後著作権者である近藤千雄さんのご遺族を尋ねましたがお留守でお会いすることができませんでした。

現在「シルバーバーチの霊訓」は心の道場というところからAmazonで第4巻まで出ています。
残りの5〜12巻はAmazon他で中古本で手に入れることができます。
しかし価格がほぼ3000円以上ととにかく高いです。
こういう現状を放って置いてはいけないと私は思っています。
おそらく多くの人が、そして霊性の高い霊魂がそう思っているのではないでしょうか。
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親と子にとって地上はまさに修行の場です [親子、夫婦、家族]

霊的に視て、子は親を選べませんが、親もまた子を選べません。
親も子も地上で霊性を向上させるべく、つまり霊として魂を磨くべく地上に誕生します。
霊性の向上というのは、言葉を変えると「慈愛」「隣人愛」という愛の大きさを大きく深くしていくことです。
もっとわかりやすくいうと、どれだけ認めて、許して、受け入れるかです。
それをまずは自分の子供で試されるのです。
家族というのは、社会の中で最小単位の組織です。

組織はトップの理念によって、良くもなり悪くもなります。
皆さんには絶対に揺るがない「理念」がおありでしょうか?
理念というのは人間で言うと「背骨」です。
自分の背骨が曲がっていたり、細かったりすると、真っ直ぐに歩くことができません。
中には背骨がないために、人の意見で右に行ったり左に行ったり、右往左往している人もいます。
あるいは背骨がないために、欲や損得で判断している人もいます。

背骨がない愛は、肉体的な愛に偏重しがちです。
生まれてきた子が健康で可愛ければ溺愛します。
しかし身体が健康ではなく、あるいは精神が未発達であれば、その子の不幸を嘆きます。
そして「自分は何と不幸なのだろう」と自分の運命を嘆きます。

これらは子供を肉体として見ているために起きる感情です。
自分に霊的な摂理という背骨が無いために起きる人間的な感情です。

人間性と霊性は違います。
人間性が優れているからと言って、霊性が高いとは限りません。
人間性というのは、その時に生きている人類の霊性の平均的なものと考えれば良いと思います。
たとえば今の人類は、ほぼ肉体的に生きており、霊的な生き方ができていません。

シルバーバーチは、「なぜ人間として非の打ちどころがない人がガンで死ぬのか?」という質問に対して、「その人は生前非の打ちどころがない人生を送っていなかったということです」と答えています。
それは言葉を変えれば、霊的な摂理に抵触して生きていた、つまり肉主霊従の生き方であったということです。
人生は「原因と結果の法則」が連綿と続いている、ただそれだけなのです。
自分に起きている結果の責任はすべて自分の思念、言動にあるのです。

偶然や突発的などということはありません。
すべてにおいて霊的な摂理、生命の法則、大自然の摂理が働いているのです。

人生が苦しいのは、自分の背骨が霊的な摂理になっていないからです。
背骨というのは理念のことです。
背骨がそうなっていなければ、自分の言動はその時々によって感情に流されてしまいます。
大事なのは霊的な摂理を自分の背骨にすることです。

なぜ?
それは人間は生命だからです。
生命のことを霊といいます。
生命と霊は同義語です。同じなのです。

宇宙は生命のために存在しています。
自分という生命が肉体を身につけているのは、ほんの一瞬です。
宇宙は生命の法則である霊的な摂理によって完全に統治されています。

そのことが信じられない人は、霊的な摂理がどれほどのものなのかを体験していない人です。
否、実は体験しているのですが、気づかないだけなのです。
人類の全員が常に体験をしています。
なのに気づかないなんて、何ともったいないことでしょう。

霊的な摂理を体験するには、霊的に生きる以外にはありません。
人間は生命なのですから、霊的に生きるのは当たり前のことであるし、霊的な摂理に合わさるように出来ているのです。
そのように生きることによって、子供を見る目が変わってきます。

なぜ生まれてくる子どもの肉体や精神が健全でない場合があるのか?
それは両親の魂の成長にとって必要だからです。
自分の愛を大きくして、認めて許して受け入れるためなのです。

そのためにはどうしても、子供を肉体として見るのではなく、一人の霊魂として見る必要があるのです。
人間は霊としては完全なのですが、魂は不完全極まりません。
その魂を成長させることが親子にとって必要だから、その家族にはそういう試練が与えられたのです。

自分の愛を大きくする、それが霊性の向上です。
そのための試練は、親子だけではなく、あらゆる人間関係で試されています。
憎しみや妬みはなぜ起きるのか?
それは自分の愛が小さいからです。
認めて許して受け入れることができないからです。

それは何も人間に限ったことではありません。
動物も、鳥も、魚も、虫も、すべての生き物を認めて許して受け入れる、つまり日常こそが試練なのです。

皆さんは、どこまで認めて許して受け入れることができるでしょうか?
食べ物としてではありませんよ!
生命として、霊として、彼らを見て、自分と同等の霊として認めて許して受け入れる、それが人間の試練なのです。

今の人類はまだそのことに気付いていません。
ですから物事は偶然に起きていると思っています。
しかし、偶然というのはこの宇宙には一つもありません。
すべては原因と結果の法則という霊的な摂理の現れに過ぎません。

どうぞお子さんを霊的に愛してあげてください。
怒りと愚痴と不正直はいけません。
これは人間性の三大悪です。

苦難や困難を人間は忌み嫌いますが、霊的な視点で見ると本当にありがたいものなのです。
私たちがこの地上に誕生したのは、自分という魂を成長させるためです。
魂の成長に欠かせないのが、苦難であり、悲しみであり、病気であり、危機的な状況なのです。

ですから私たちはそこから逃げてはいけないのです。
苦しければ逃げることはできますが、チャレンジすることもできる、そういう自由意志が与えられているのが人間なのです。
マザーテレサは「神様はあなたが成功することなど望んではいません。チャレンジすることをお望みなのよ」と言いました。

是非一歩前に出てチャレンジしてください。
その時に防具として、霊的な摂理を背骨として身につけるようにしてください。
霊的な摂理は本当に強力な防具です。

霊的な摂理が自分の背骨になった時、人はきっと「人生は自分が思った通りになる」、そう思うに違いありません。
それを幸せというのではないでしょうか。

「シルバーバーチの霊訓」12巻は人間的な視点ではなく、霊的な視点で「霊的な摂理」の数々が書かれています。
翻訳者の近藤千雄さんの訳がまた絶妙なのです。
繰り返して何度もお読みください。
いつか必ず自分の背骨が霊的な摂理になることを信じて、読み続けてください。

霊性が向上すれば、今起きている苦難困難は消えてなくなります。
と言いましても自分から苦難困難が無くなるわけではありません。
自分の慈愛、隣人愛という愛が大きくなれば、今まで認められず、許せず、受け入れることができなかったことが、認めて許して受け入れることができるようになるのです。
慈愛、隣人愛という霊的な愛を大きくするために苦難困難があるのです。
そしてチャレンジすることにより、人間にはその苦難困難を克服する力が与えられているのです。
絶対に諦めてはいけません。
わからなくなった時、苦しくなった時には、シルバーバーチの霊訓が助けになるはずです。
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