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最善を尽くせば、誰かが応援してくれます! [霊的な摂理(大自然の法則)]

「最善を尽くす」とはどういうことでしょうか?
果たして私たちは日々最善を尽くして生きているでしょうか?

例えば家庭では両親のお世話や子供の世話をしなければなりません。
結婚をすれば両親は増えます。
子供も生まれます。
そこに仕事が入ってきます。

とても結婚相手の両親まで面倒を見ることができません。
そんなゆとりが無いのです。
なぜ無いのかというと、自分のことで精一杯だからです。

通常はさらにここに遊びや趣味やリラックスする時間が入ってきます。
これは自分のために使う時間です。

最善を尽くすというのは、自分と他人を分け隔てしないことである、私はそう思っています。
イエスが言っている「自分がして欲しいことを他人にしてあげる」ということだと思います。
他人というのは、自分という霊魂以外の者すべての人のことで、家族も入っています。

家族というのは最小単位の社会です。
この最も小さな家族という社会でも、一人一人の霊性霊格は違います。
いわゆる価値観の相違です。

家族といえども価値観の違う人に最善を尽くす、つまり自分の時間と金銭を使うには一体どれほどの愛が必要なのでしょうか。
そこには想像を絶するような大きな愛が必要になるはずです。

自分がやりたいことがあるのに、それを我慢して家族のために時間とお金を使う、それでは最善を尽くしたとはいえないのです。
なぜならば、そこに自分の我慢が入っているからです。


最善を尽くすというのは、我慢や忍耐やイヤイヤではなく、当たり前に行うことです。
マザーテレサは「重要なのは大きなことを為すことではなく、小さなことにも愛を込めること」であると言っています。
まさにこの愛がこもっているかどうかが、最善を尽くすということなのです。
愛がこもっていなければ、どんなに時間とお金を使っても、それは最善を尽くしたことにはなりません。

最善を尽くせば、必ずそれを見ている者がいて、助けてくれます。
それが生命の法則、宇宙を統治している霊的な摂理なのです。

ただ、小さなこと一つ一つに愛を込めるのは、本当に難しいです。
簡単ではありません。
他人を許し、認め、受け入れる、どんな人も分け隔てしない、他人と自分を区別しない、それが霊性霊格が高いことである、とシルバーバーチ言っています。

私はここに「すべての生きているもの」という文言を付け足したいと思います。
人間は生命です。
動物も、鳥も、魚も、虫も、人間と何も変わらない生命です。

なのに人間はどうして彼らを人間と同等に扱わないのでしょうか。
なぜ彼らを分け隔てするのでしょうか。
なぜ自分がして欲しいように彼らに対してしてあげないのでしょうか。
今の人間の生き方が最善を尽くす生き方であるとどうして言えるのでしょうか。
私たちは自分の胸に手を当てて、今一度考えて見る必要があると思います。

福沢諭吉は「人間に上下はない」と言いました。
私たち人間は当時よりも進化しているはずです。
それならば人間だけではなく、すべての生きている生命を尊重する時代になってもおかしくはありません。
それなのになぜ動物や鳥や魚や虫に対して、彼らを食べたり、薬剤の開発に使ったりするのでしょうか。

それらの行為が霊的な摂理に抵触しないとなぜ言い切れるのでしょうか。
こんなことをしていながら愛を大きくすることなどできるはずがありません。
愛が大きくならないということは、霊性が向上しないということだと思います。

コロナ禍を無くすということは、そういうことなのではないでしょうか。

魂を大きくするために、自分の前に四苦という苦しみが生じるのです。
生きる苦しみ、老いる苦しみ、病気の苦しみ、死の苦しみ、こういう辛い苦しいことがなければ、人は真剣に生命のことを考えもしないのではないでしょうか。

コロナ禍は「生命とは何か」を真剣に考える良いチャンスである、私はそう思っています。
ワクチンという物質に頼るだけではなく、非物質である自分という魂を見つめ直し、頼れる魂にしていく良い機会です。

この地上は自分という小さな魂を大きくしていく修行の場です。
修行を拒否すれば、それは辛く苦しいことです。
修行として受け入れれば、魂は成長し始めます。

四苦は克服するために現れるものです。
克服して自分という魂を成長させ、大きくするためです。
小さなことの一つ一つに大きな愛を込められるようになるためです。
自分と人を、さらに動物、鳥、魚、虫を分け隔てしないように、愛を大きくしていくことです。

魂の大きさ、霊性というのは、愛の大きさなのです。
愛が大きくなればなるほど、つまり霊性が向上すればするほど、最善を尽くせるようになっていきます。
日々最善を尽くせば、後悔はなくなります。
死後地上に戻りたいと思うのは、最善を尽くしていないからではないでしょうか。
最善を尽くして生きていれば、戻るのではなくもっと先へ進みたいと思うのではないでしょうか。
私はそう思っています。
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肉主霊従から霊主肉従へ!! 本当の生命進化論 [霊性の向上、霊的な進化]

生命と肉体、その間にあるのが精神です。
自分という意識は、精神の中にあります。
そして精神には、生命的な意識と肉体的な意識との両方があります。

生命も肉体もどちらも自分なのですが、みなさんはどちらも同じくらいに意識できますでしょうか。
おそらく肉体は意識できるけど生命はよくわからないというのがみなさんの精神の立ち位置だと思います。
実は、自分という生命を意識できるようになる、これが今のみなさんに課せられた宿題なのです。
シルバーバーチ風に言いますと、肉主霊従から霊主肉従へと自分の精神を変えていくことなのです。

肉主霊従と霊主肉従は180度違います。
シルバーバーチは生命と肉体、どちらも疎(おろそ)かにするなと言っています。

私は魂の琴線に触れてから今年でちょうど10年になります。
魂の琴線に触れるというのは、大きな悲しみや病気などで魂が追い詰められて自分ではどうすることも出来ないもんどり打つような状況に落ちいった時、人間は初めて魂が目覚めるということを表現した言葉です。

それまで肉主霊従で生きてきました。
当然人間は死んでから霊魂になると思っていました。
生きている人間が霊魂であるなどと考えたこともありませんでした。
子供の頃から好き嫌いなく何でも食べました。
肉も魚も乳製品も卵も、パンもお茶も、今は食べないものもすべて食べていました。
それが当たり前であったし、もしそれらを食べなければ肉体に害を及ぼすと思っていました。

しかし今は肉も魚も乳製品も卵も、パンもカフェインも食べてはいません。
肉主霊従と霊主肉従はこのように食べ物一つとっても180度違います。

なぜそのように変わったのか?
それは精神の中の意識が、今まで肉体的であったのが生命的に変わったからです。

今私は生命的という言葉を使いましたが、生命というのは言葉を変えると霊です。
つまり私は今どちらかと言うと霊的な意識で生きている、ということです。
それでもなかなか霊主肉従にはなれません。
それくらい霊主肉従という意識になるのは難しいと思います。

肉体というのは自分が中心です。
生命、霊というのは、他が中心なのです。

肉体は個々です。
生命、霊は全体であり、一つなのです。

肉体的な意識というのは自己中心的な意識です。
生命的な、霊的な意識というのは、自分と他人を分け隔てしない意識のことです。
生命的な、霊的な意識とは、自分と人間以外の他の生命をも分け隔てしない意識なのです。
シルバーバーチが「とにかく人の役に立つことを」と言っているのは、そういうことなのです。
自分と人とは同じ一つの生命、霊なのです。

自分と動物とも同じ生命、霊なのです。
自分と魚とも同じ生命、霊なのです。
自分と鳥とも同じ生命、霊なのです。
自分と虫とも同じ生命、霊なのです。

同じ霊という生命の素で創られているのです。
すべての生きているものは、霊なのです。

では彼らと人間の進化の違いとは何なのか?

違いは進化に費やしてきた時間が違うのです。
彼らはこれから虫から魚に、魚から鳥に、鳥から動物に、動物から人間に、魂の成長に合わせて宿る肉体を変えながら進化していくのです。

本来の生命の進化というのは、このような霊的な進化を指す言葉であり、ダーウィンの肉体の進化論とは全く別次元の進化論なのです。
なぜならば、シルバーバーチが言うように「生命とは霊のことであり、霊とは生命のことである」からです。

私たち人間はなぜ、何のために生きているのでしょうか?
それは自分という魂を進化させるためです。
魂の進化とは、精神を肉体的から生命的、霊的に変えていくことです。

もう一つ別の見方をすれば、進化とは着ている身体を変えていくことです。
肉体的視点で見れば、例えばウィルス→虫→魚→鳥→動物→人間というようにです。
生命的、霊的視点で見れば、着ている霊という身体をより精妙にしていくことです。

つまり、死とは進化を意味する言葉なのです。
人間は死んで肉体という衣服を脱いで、より精妙な身体である霊の体を身につけることになります。
霊の体というのは、生命の体です。
このような霊的な成長こそが、本来の進化なのです。

人間の進化とは、このように生命的に、霊的に意識を変えていくことです。
そして人間の進化は、動物までの進化と違い、一人一人の自由意志に託されているのです。
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生老病死という四苦を無くす生き方 [霊性の向上、霊的な進化]

私たちの通常の意識は「自分と人は別」という意識です。
それは私たち地上の人類の意識の進化の程度がまだそこにあるからです。
進化にはこのように意識の進化と肉体の進化があり、またその両方共に人類全体としての進化があり、またそれぞれ個別の進化があります。

しかし全てに共通しているのは、生命(いのち)という法則の枠内で営まれているということです。
大きな視点で見れば、宇宙というすべての空間は、この生命の法則で統治されています。
もちろん地球も例外ではありません。
そして宇宙にあるすべての天体には生命が住んでいます。

宇宙の生命は、私たち地球の人間から見たら宇宙人です。
すべての天体には宇宙人が住んでいます。
ただこの宇宙人という言い方は正しい言い方ではありません。
もし天体に住んでいる生命が宇宙人ならば、私たち地球の人間も宇宙人になるからです。

では正しい呼び方は何なのか?
それは霊魂です。
宇宙の全ての天体には霊魂が住んでいます。
もちろんこの地球にも霊魂が住んでいます。

霊魂というと死んだ人のことだと思うかも知れませんが、それも間違いです。
霊魂は生きている者全てに宿っています。
もちろんいわゆる死んだ人にも宿っています。

この意識のことを魂と言い、生命(いのち)のことを霊と言うだけです。
全ての生命には、この霊魂が宿っているということです。

実際には、生命という生きているエネルギー体である霊に意識である魂が宿っているというのが正しい見方であると思います。
この霊魂が地上に生まれるときに肉体という身体を身につけてくるのが、私たち人間というわけです。

人間だけではなく全ての生命は、このようにして地球に生まれてくるのです。
このうち人間に見えるのは肉体という物質だけです。
非物質である霊魂は人間には見えません。

それは先ほど言った魂の進化と関係があります。
魂というのは意識です。
意識は進化するのです。
意識が進化すれば、生命とは何かがわかってきます。
人間の本質は霊魂である、ということが魂で理解できるようになるのです。

シルバーバーチが「地上の人間はまるで死人のように生きています」と言っているのは、多くの人間がまだ「自分は霊魂である」という意識がないことを指しているのです。
なぜこの意識が大事かというと、宇宙は霊魂のために存在しているからです。
肉体のために存在しているのではないということです。

肉体が全てであると思っていると、生命の法則からは逸脱していきます。
そこに生老病死という四苦が生まれます。
肉体が生きていられるのは、肉体に生命である霊が宿っているからなのです。
ですから霊が肉体から出て行けば、肉体は朽ちて土に還るわけです。

法律は肉体を守るためにあります。
生命の法則は霊魂を守るためにあります。

みなさんは肉体として生きていますか? それとも生命として生きていますか?

生命は見えません、しかし肉体は見えます。
見えない生命をプライオリティ(優先順位)の一番にすることは、この上なく難しいことです。
だからこそ、魂の向上が大切なのです。
魂は霊性が向上すれば進化します。

この地上を含め、私たち霊魂の使命は、まさにこの自分という意識を霊的に向上させることなのです。
霊的に生きるということは生命的に生きるということです。
人間は生命なのですから生命的に生きるというのは当たり前のことなのですが、これは意識の問題なのです。
生命的に生きるというのは、生命の法則に則って生きるということです。

生命の法則は確実に宇宙を統治しています。
そう生きてみれば、それが実感できるはずです。
そしてますますそう生きなければと思うようになると思います。

全ての原因は霊魂にあります。
肉体や物質は結果に過ぎないのです。
生老病死という四苦の本当の原因は、生命の法則の逸脱にあります。
この地球を含め全ての宇宙は生命のために存在しています。
生命的に生きる、つまり霊的に生きるためには、意識を変えていかなければなりません。
それは言葉を変えれば、霊性の向上です。
自分の生活で、日常で霊性を向上させていくことが大切なのです。
生命の法則は、そのようにつくられているのです。
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今の日本には審神者(サニワ)がいません [審神者(サニワ)]

審神者(サニワ)とは、一人一人に影響を与えている背後にいる霊魂を正確に霊的にジャッジする人のことです。

他界した霊魂の影響を受けていない人は一人もいません。
誰でも必ず他界した霊魂の影響を受けています。
その答えは、人間は霊であり、宇宙は霊界だからです。

霊能者も同じです。
霊能者にも必ず影響を与えている霊魂が背後にいます。

自分では「高い霊界の高級霊と繋がっている」と思っている人でも、実は地上近くにいる浮遊霊であることが多いのです。
高い霊界とつながる場合には、背後には必ずどっしりとした守護霊や指導霊がいるものです。
宙に浮いている浮遊霊は、高級霊とは繋がっていません。

浮遊霊は高級霊とは繋がっていませんが、高級霊的な知識は持っています。
そこが厄介なところです。
まるで高級霊かのように思ってしまう霊能者が多いのです。

どんなに優秀な霊能者でも自分の背後霊は視えません。
ですから誰かに視てもらわなければ、背後霊のことはわからない訳です。

日本には昔から巫女(ミコ)と一緒に活動する審神者(サニワ)という人がいました。
巫女は今でいう霊能者です。
霊能者は今でもたくさんいますが、審神者はいません。
何故いないのかというと、そこまで自分に厳しい修行をする人がいないのです。

ですから霊能力のある人は、自分で自分のことを客観的に見るように訓練していく必要があるのです。
つまり審神者の要素を自分で持つということです。
審神者は、通常自分で霊能力は使いません。
使いませんが、必要がある時にはちゃんと霊能力は出てきますので心配は入りません。

自分の背後にいる霊魂が、霊的に視て本当に正しいことを教えてくれる霊魂なのかどうかを見極める目を養っていくことは、非常に重要なことであると思います。

そのためには、自分の霊性を開発していくという最も困難なことを自分に課していく強い意志がなければなりません。
霊性は向上すればするほど、そういう選択肢が増えていきます。
霊性が開発されなければ、選択肢は少ないままです。

審神者の条件とはなんでしょうか。

まずは思念から正直になる、ということでしょう。
日常でうそ、ごまかし、かくしごとをしないことです。

そして怒らないことです。
さらに愚痴や悪口を言わない、思わないことです。

自分の欲のために、金銭のために、組織のために、霊能力を使わないことです。
世のため人のためと言っていても、心の底に自分のため或いは組織のためという強い思いがあると閉鎖的・排他的になり、人を差別するようになります。
このような言動は、同類の霊魂を呼び寄せてしまいます。

霊能者であるという自覚がない人でも、背後に浮遊霊がついている場合があります。
肉体的な欲が強い人もこのような霊魂がついている場合があります。
それは審神者には浮遊霊として視えますし、ある段階まで霊性が開発された審神者はその浮遊霊と会話をすることもできます。

背後霊のことは、審神者が一番よく分かっています。
しかし、今の日本に果たしてそこまで修行をした審神者はいるのでしょうか。

そもそも霊能力は「人間は霊である」ということを得心するために自分に現れるものです。
霊性の開発をしないで霊能力を使うことは私はお勧めしません。
霊能力が現れたら、霊能を磨くのではなく、まずは自分の魂を磨くべきだと思います。

魂の開発、霊性の開発、霊性の向上は、何よりも優先しなければならない、霊能者の使命、否、人間の使命であると私は思っています。

「シルバーバーチの霊訓」は、魂の開発、霊性の開発の目的で一人一人の魂のために書かれた書籍です。
私は自主廃業した潮文社のシルバーバーチの霊訓を今でも愛読しています。
なぜなら潮文社のシルバーバーチの霊訓には慈愛を感じるからです。

審神者としての高い霊性を兼ね備えた霊能者が今の時代には必要なのではないでしょうか。
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心霊治療(スピリチュアル・ヒーリング)について [心霊治療]

「人間は自分で自分を治すことができる」私はそう思っていますし、それがスピリチュアル・ヒーリングができる前提条件ではないかと思っています。
サイキック・ヒーリングまでの目的は「病気を治すこと」です。
しかしスピリチュアル・ヒーリングの目的は違います。
病気を治すことではありません。

スピリチュアル・ヒーリングの目的は「魂の開発」にあります。
魂の開発のサポートをすることです。
魂の開発をするのはスピリチュアル・ヒーラーではなく、ヒーリングを受ける本人です。
そうなるようにヒーラーはヒーリングをすることになります。

病気が治るに越したことはありません。
しかしそれよりも大事なのは、魂が開発されて自らの霊性に気づくことなのです。
ヒーラー自身がそういう価値観になっていないと、スピリチュアル・ヒーリングはできません。

皆さんは自分の霊性に気づいていらっしゃいますか?
人間性ではなく、霊性です。

多くの人が自分の霊性に気づかずに生きています。
自分が生きていられるのは自分が霊だからである、ということに気づかずに生きているのです。
生命とは霊であるということが自分の腑にストンと落ちること、ここが霊性開発の出発点です。
霊性の開発に終点はありません。

霊性は自分で開発できます。
つまり自分で霊性を開発しようという意志があれば、誰にでもできることなのです。
霊性というのは、自分という魂がどれだけ霊の完全性を現しているかの物差しです。
これは言葉を変えれば、一つ一つのことにどれだけ愛を込めることができるか、ということだと思います。

霊性が開発されればされるほど、他人事が他人事ではなくなります。
マザーテレサが道端に倒れているハンセン病の人を抱き起こしたのは、他人事ではなくなっていたからです。
このように患者は自分の前に連れてこられるようになります。
決して患者を探すようなことをしてはいけないのです。
逆に言えば、患者を探しているうちはまだサイキックであるということです。

誰が連れて来るのかというと、天です。
天が連れてくるのです。
天というのは「霊的な摂理」です。

「霊性の開発」は孤独で、苦しい、自分との戦いで始まります。
誘惑に弱い自分に勝つためには、自分の背骨、哲学を揺るぎないものにしていかなければなりなせん。
最初から強い人は一人もいません。
弱いからこの地上に生まれてきているのです。

それは肉体の奥に自分の魂が引っ込んだ状態になっているからです。
今自分だと思っている意識は肉体的な脳を通した意識であり、魂の意識ではありません。

魂の意識が開発されだすと、自分の霊性というものに気づくようになります。
「自分の霊性に気づく」ということはとても大切なことです。

肉を食べない人、タバコを吸わない人、お酒を飲まない人が霊性が高いという訳ではありません。
大事なのは、自分の霊性を開発するために、たとえば上記のことにチャレンジするという意識なのです。
うそをつく、誤魔化す、隠し事をする、怒る、愚痴を言う、などの人間的な弱さを無くすことにチャレンジするのは、、霊性の開発に大いに役立ちます。

霊性の開発は人間の使命です。
このことに気づくためには、魂が開発されなければなりません。
この両方はセットになっています。
魂が開発されれば霊性の開発に気づくようになり、霊性の開発をすれば魂が開発されるという良循環になっていきます。

絶体絶命のピンチというのが人生にはあります。
多くの場合、それは悲しみであり、病気であり、困難であり、危機的な状況という姿形で現れます。
しかし、霊的な視点で見ると、この絶体絶命のピンチこそチャンスであるということができる、と私は思います。
自分の意識を肉体的→霊的に変えるチャンスなのです。

意識を変えなければ、自分が生命であるという最も大事なことも腑に落ちることがありません。
人生は、意識を肉体的→霊的に変えていく、この連続である、ということができます。

意識が霊的になればなるほど、他人事が他人事ではなくなっていきます。
そして病気を治すことよりも、魂の開発が大事であり、霊性の開発が大切である、ということがわかってくるのです。

ヒーラーが病気を治そうという意識の時にも病気は治りますが、また再発します。
それはヒーリングを受けた人の魂が何も変わっていないからです。
ヒーラーの意識が開発されてくると、ヒーリングを受けた人の意識が変わる様子が分かるようになります。
さらにその方が霊性を開発するようになる、そういうサポートができれば素晴らしいことだと思います。
というか、魂が開発され霊性の開発に気づくところまでいかないとスピリチュアル・ヒーリングが功を奏したとは言えない気がするのです。

そういう人に一生に一人でも巡り会うことができたら、それこそがヒーラーの喜びではないでしょうか。
それこそが「霊の褒賞」ではないでしょうか。
スピリチュアル・ヒーリングとはそういうものである、今の私はそう思っています。
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